耐雪桜花麗

そこらへんにいるオカンの日常。

ずっと村上宗隆を信じ続けてきたからもう書いてもいいよね

WBC、優勝できて本当に良かった。最高に感動して、涙があふれた。

実は少し前、予選リーグ終盤の頃、WBCの記事を書いた。村上宗隆の不振が続き、四番から降ろせ、村上不要説がネットを騒がせた頃だ。村上宗隆のファンで、彼をずっと応援している自分は憤り、どれだけ村上が凄いか、お前らはわかって言ってるのか的な言葉を書き連ねた。ふと読み直してみたらあまりにキモイので消した。事実村上は打てていなかったし、こんなこと書いたって説得力もないよねとブラウザを閉じた。

でも、信じてきたからこそ、今すべての結果が出たからこそ、もうこの記事書いても許されるよね?絶対村上は最終戦でホームランを打つ、あいつはそういう奴、と思ってその通りになったんだから、私はこの記事を書く資格がある(キモイ)。

 

「村神様」が2022年の流行語大賞になったとき、私が一番最初に思ったのは「やめてくれ」だった。あの時はサッカーワールドカップが日本の話題をさらい、なんだ村神様って、流行ってねえよ、ブラボーだろ?って言われるのなんてわかっていたからだ。

野球が好き、というとどんな選手が好きなの?と聞かれ「村上宗隆」って答えると、たいていの人はピンとこない感じだった。そこで村上って凄いって説明を早口でしてしまう。野球を知っている人ならわかる!って顔をしてもらえるけど、そうでない人からは大谷翔平は知っているけど…みたいな反応になってしまう。

そもそも村神様は小さな神様だった(はず)。スワローズファンがここで点が欲しい、というところで祈ると必ず応えてくれる、その積み重ねが彼を神格化していったんだと思う。

村上宗隆は、大谷翔平とは全く違うタイプの野球選手である。スワローズ同僚の塩見選手が「ムネは大きな赤ちゃん」と称していたことを思い出す。

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ベンチでは監督のようにふるまい「村上監督」と呼ばれたり、食事といえばおにぎりばかり食べる様子をインスタにあげたり、打撃とは正反対でめちゃくちゃエラーもするし(それが原因で負けるし)、ファン感謝デーには寝坊して遅刻してきたりする。大谷は弱点がどこにあるのか教えてほしいレベルだけど、こっちは隙だらけだし、時々5歳児に見えたりする。

そういう若干23歳のただの野球少年が、突然サイヤ人みたいになって漫画みたいな活躍をするところを何度も見てきた。5打席連続ホームランをはじめ、シーズン最終戦最終打席56号ホームランとか、二試合連続グランドスラムとか、漫画でも見ないような、祈りを捧げた以上のプレイが返ってくるのを見て、もう神と崇めるしかなかった。

清宮の外れ1位で東京ヤクルトスワローズに入団した村上宗隆は、スワローズの4番になるための立ち振る舞いや精神論などを、厳しく叩き込まれたという。

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もし、彼が読売ジャイアンツに入団していたら、今のような活躍ができていたのだろうかと時々考える。この5歳児が、5歳児のまま受け入れてもらい、のびのびと活躍できるチームであったからこそ、今の彼がある。

それでも、こうして三冠王として結果が出たのは今年のことで、しょうがないけど、報道で少しでも早く大リーグに行くべきとか、日本にいたらいけないとかいう記事が出てきてしまったときは、まだその時じゃない…そんな期待はきっとこの純粋な野球少年をつぶしてしまうんじゃないかと不安になることがあった。そして、追い打ちをかけるように「村神様」が流行語になり、野球を知らない人にとっても、村上=神の印象が刷り込まれてしまった。この時の村上は、独り歩きする自分像に、プレッシャーや重圧を感じていたんだろうか?

時々、村上のメンタルについてシーズン中も考えることがあった。7月、ヤクルトスワローズの主要選手がコロナウイルスに次々と感染し、離脱していったとき、村上選手はコロナに感染せず4番を全うし、「チームの中心に僕がいるということは自覚している」と発言して、ファンを驚かせ、勇気づけてくれた。

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でも、実際にはその期間中はあまり元気がなく、本当にメンタル大丈夫だろうかと考えることもあった。まだ23歳の若者が、スワローズの4番を背負い、チームの中心になろうとしている。でも、本当の心持ちはどうだったのだろうと。

そして、ホームラン55号を打った時、残りの試合数を考えると、私から見たら60本も夢じゃないような気持ちでいたが、その後打てなくなり、55号→56号に14試合も要した。あの時、見た目にはわからないけれど、ものすごいプレッシャーを感じていたのかもしれないと、初めて神と思い込んでいた村上の人間らしさについて考えたりした。

そしてWBC。開幕と同時に、大谷翔平の怪物ぶりを目の当たりにして、野球を観ているだけの私ですら戦慄を覚えたんだから、野球選手だったら、「もう自分野球やらなくていいんじゃないかな」と心がぽっきり折れても仕方ないように感じた。さらに、3番大谷、4番村上と、大谷選手の打席の後に入ることは、公開処刑のような気持になっていたに違いない。村上選手ではないが、同じ代表の山川穂高選手が心情を語っていた。

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だから、私は村上はそんな奴じゃない、と怒りを込めた気持ち悪い記事を書きそうになった。村上がここで折れて、もうここまでで良いよ、と言い出してしまうんじゃないか、もしこのまま1本も打てなくて帰ってきたら、村上のメンタルどうなっちゃうのか…そんなことばかり考えていたと思う。

でも投稿ボタンを押す前に、いや待て、それはずっと崇めてきた神に対する冒涜じゃないのか?と思い直した。村上はいつだって私たちの予想を超える展開を持ってきてくれたじゃないか、きっと決勝戦に特大ホームランを打って、全てのおいしいとこを持ってく奴じゃないか!と笑いがこみあげてきて、このWBCが終わるまでは何も言うまい、と心に決めたのだった。

 

そして、結果は私の想像を超えて、村上宗隆は準決勝のサヨナラ長打ですべての批判をチャラにした。決勝戦のホームランもよかったが、やっぱりサヨナラしたあとの2度の雄たけびが、私の涙腺を崩壊させた。ムネは弱くなかった。いや弱い部分もあったからこそ、それを力にできた。そんな安っぽい言葉じゃないと思うけど、この苦しさと重圧は、本人にしかわからないものだったと思う。

上の動画が私の公式動画で一番好きな場面だ。いやどうやったらこんなドラマティックなシーンになるのさ。やっぱり神様はいたんだ。

 

そして、栗山監督が、私の言いたいことを最も代弁してくれていた。

「多分、本人の中ではまだ、最後打ちましたけど、チームに迷惑をかけているという感じしかないんじゃないかなというね。あんな打者ではないので。本当に世界がびっくりするような打者であるという、それを僕がこのWBCで証明したいと思ってやってきた。その彼を信じる気持ちはゆるぎないものがあるし、打つきっかけをつくるためにはいろんなことをしないといけないので」

【指揮官一問一答】侍ジャパン・栗山監督、大不振の村上宗隆に「最後はお前で勝つんだとずっと言ってきた」/WBC - サンスポ

そう、世界がびっくりするような打者なんだよ村上宗隆は。去年から通してみてきて、やっぱりこんなロマンのある選手はいないし、村神様と呼ばれて遜色ない、堂々としていてほしい選手なんだ。

WBCという大きな夢は最高の形で終わった。でもまだ、野球は続くし、まだまだ彼から目を離せない。スワローズから旅経つ時が来たらきっと泣いちゃうし、喪失感が凄いと思うけど、その時が来るまで、私は何度でも神に祈るし、お布施もするだろう。そして、今年からは、堂々と「私の好きな選手は、皆も知っているあの!村上宗隆です」といえるようにしてくれてありがとう。今年も現地に見に行きます。

村上宗隆への感謝状。

新型コロナウィルスが流行する少し前のこと、野球とはここ何十年も無縁の人間だった私は、なぜか明治神宮球場にいた。

 

夫が会社で、ヤクルト戦のチケットを4人分もらってきたからである。息子たちも野球をやっていないし、ここ何年も野球自体を見ていなかったから、子供たちが最後まで野球を見られるのかという心配ばかりして、その日を迎えていた。

 

外野席、その当時は入場制限なんてなかったから満員、マスクもせず多くのファンでごった返していた。そして忘れもしない、試合の終盤、スワローズの若きバッター、村上宗隆の特大ホームランを目の当たりにしたのだ。

 

とにかく美しかった。外野席ど真ん中に飛び込んだホームランを見て、歓声に沸く客席の中で、ひとり感動で動けなくなってしまったのだ。

 

そうだった。私は野球が好きな時期が確かにあったんだ。突然その自分自身の記憶を呼び覚まされたのだった。

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私は40代半ばになるが、幼少期まで記憶を遡らせる。

私は生まれる前、周囲からこのお腹の子は男の子に間違いない(お腹が突き出ているからとかいろんな迷信のせいで)と信じられていた。しかし実際に出てきたのは、女の子だった。

将棋好きの父は、生まれるまで男児だと信じて疑っていなかったから、将棋から一文字取った将行という名前しか考えていなかったほどだという。その後私に兄弟は生まれず、一人っ子として育った。

父は子供を棋士にするという夢を諦められず、私が女であるにもかかわらず、将棋を幼いころから仕込んだ。だが私自身は向上心がなかったし、やはり将棋は男の子のもの、というイメージもあったからか身につかなかった。

家ではいつも野球中継も流れていた。将棋が指せて、野球のルールもわかるなんて女の子は昭和の当時は少なかったし、友達と話が合うことも少なかった。それでも、テレビでは毎晩野球中継が流れていたし、両親ともに筋金入りの巨人ファン、テレビ中継内に試合が終わらなければ、ラジオに移行するほどの家庭だったから、私も自然と野球観戦に興味をもつようになっていった。

 

毎晩みていると、なんとなく次にリリーフが出てくるタイミングとか、だれが出てくるのかとか、予想が付くようになってくる。私の世代はというと、松井秀喜や佐々木大魔神、スワローズで言えば高津臣吾や古田が全盛期、ID野球なんて言葉も流行のときだったと思う。巨人で好きだったのは川合、篠塚、條辺など渋い選手で、デーブ大久保なんかも大好きで下敷きまで持っていた。田舎暮らしだったから現地観戦した記憶は1度しかなく、東京ドームだったかどうか、もう記憶が残っていない。

 

しかし世の中はJリーグ全盛期、周囲はサッカーファンばかりで哀しい思いをした。テレビでも野球中継をほどんどしなくなり、私も両親も、いつの間にか野球を卒業させられていた。

 

こんな濃密な時間があったはずなのに、私は40代のこの瞬間まで、あのころの気持ちを忘れていた。私の好きだった選手や知っている選手はほとんどいなくなり、もう熱狂するなんてことはないだろうな、という思い込みを、みごとに村上のホームランがぶち破ってくれたのだ。若くてもこんな素晴らしいバッティングをする選手がこの時代もいるのか!と本当にあの頃の松井秀喜を彼に重ねるほどの衝撃を覚えたのだ。しかもその選手が20歳そこそこであるということにもびっくりだった。

 

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そこから自分にはこんな行動力があったのか!と思うくらい野球にのめりこみ、幸いなことに夫も子供たちもこの現地の1戦で見事にスワローズファンになり、DAZNも加入し、家族で神宮現地参戦するようになり今に至る。

 

あの時きっかけを作ってくれた村上選手は、スワローズの不動の若き4番、未だ私に野球を愛する理由を与え続けてくれている。

(ここから告白)ありがとう、村上宗隆。どんな時も真摯で、堂々としていて、それでいて、若い弟や息子のような愛らしさも兼ね備えた男、大好きです。私を野球へと引き戻してくれたあのしびれるようなホームラン、いつも楽しみにしています。今シーズンも2戦連続グランドスラム、そして交流戦サヨナラホームラン。漫画みたいな活躍ができる主砲はなかなかいないです。ほかのチームにいかず、ずっとスワローズにいてください。(告白終わり)

 

そしてチームですが、私が幼少期、現役のとき恐れていた、抑えの高津臣吾選手が監督、自分の投手経験を生かしてなのか、素晴らしいローテーションで投手陣が誰が出てきても安泰という安心感のある采配で、いつも感銘させられている。絶対投手陣は誰かが無理させられてないか~?というような采配があるものだが、本当に盤石。

打線もいまいちかと思いきや、若者とベテランがうまく補い合って、雰囲気が良い。誰ががダメなときは誰かが補う。本当に今一番良いチームである。

 

時々は文句も言いたくなる試合もあるけれど、それも愛ある故。ここしばらく何かにはまれるということがなかったけど、野球のおかげでまたハリがある生活が送れそうである。今の息子たちからは、あの頃の私の母のような姿に見えているのだろうか。それはそれでうれしくもあったりする。

 

 


みんな、野球はよいぞ。コロナが終わったら、またみんなで神宮で応援歌歌おうな。

ワクチンを打ちました

職業的にも年齢的にも早く打つべき人間なんじゃない?とは思いつつ、なかなか予約が取れなかったりしてやや遅くなりましたが、職域接種でモデルナ一回目を完了しました。しかし受けるためには心の葛藤があったりして、直前までちょっとメンタルが不安定になりました。

 

爆発的に増えるコロナ感染者に相対して、予防接種に懐疑的な人たちの意見とか副反応のニュースとかも見聞きするようになって、勢いで接種受けられる時期を完全に逃してしまった自分。

 

40代は本当に中途半端な、忘れられた世代というか、高齢者でも若者でもない、そしてどちらの恩恵も受けられない、ほんとうに空白の世代であると感じています。

バブルも少しは雰囲気として味わった後の、超氷河期世代。この数年を生きた自分は、本当に苦しい世代であると思わざるを得ません。私は昭和生まれであり、まだまだ根性論やサービス残業をなんとも思わない部分もあって、この感覚を持ったまま、今の30代以下の若い感覚とも合わせていかなくてはならない。自分は時代に取り残されている、という焦りの中、今も生きています。もうちょっと向上心を持って仕事に取り組んでほしいと若い人に思いつつ、でもあの頃に戻りたいなんて微塵も思えない。私の生きてきた時代は全否定されていき、かといって高齢者のようにわが時代が正解!と強気にも生きられない。でもどちらの世代も私たち中堅が支えなければならない部分もあったりで、本当に「損している」というのがぴったりの世代なんだなあと思っているところです。

 

戦争をしているわけでもないのに、死がまとわりつく。こんな時代がくるとは思っていませんでした。私は地震原発事故のとき、近い感覚を味わったけれども、やっぱりどこかで他人事だったのかもしれないといまさらのように思います。

 

私は生涯で1度でいいから、クリスチャン・ボルタンスキーという芸術家の作品展を見に行くことがここしばらくの夢だったんですが、ボルタンスキーは今年、ご逝去されたとのことで、深い悲しみを味わっています。

www.pen-online.jp

今だからこそ、彼の作品が胸に刺さるはず。このコロナ禍が収まったら、小豆島にある、心臓音のアーカイブをいつかは見に行きたいです。

benesse-artsite.jp

 

いろいろな情報におぼれ、正しいことがわからないままのワクチン接種となりましたが、なんだかんだ言って、受けた後は心の落ち着きはありました。なにか一仕事終えたような肩の荷が下りたような…ずっと葛藤していることには体力を使うので、ひとつ自分自身の結論を出したことは、生活のリソースをあけられたという意味でよかったのではないかと思うことにします。

2回目が怖いのでまた苦悶の日々は始まってしまいそうですが…!

忙しさに潰されることに怯えた1年で変化したこと。

お題「#この1年の変化

前の記事からだいぶ月日が経ってしまいましたが、生きています。自分の仕事は物流業なので、だいぶ荒んだ記事を書いたこともありましたが、最近はようやく仕事の落ち着きを取り戻しつつあります。

 

コロナウイルスが流行しだした3月前後からそろそろ1年が経とうとしています。私は職業人として、母親として、一個人として、それぞれの立場でとても変化のある一年だったと感じています。それぞれの立場で、変化のあったことを振り返っていこうと思います。

 

①職業人として

私は物流の仕事に関わるようになって、5~6年になります。この1年が、一番しんどくて、心が荒んだりもしましたが、その一方で、この仕事が、社会の危機にあったとき、どれだけ生活を支えることができるものなのかを実感した期間でもありました。

私はこの仕事が好きでしたが、体力の衰えや金銭面などを考え、昨年の初めに転職を本気で考え、もともといた医療関係の職場に戻ろうと思っていました。しかしながら、世の中の状況は激変し、新しい仕事をするなどという雰囲気ではなくなってしまいました。

一度目の緊急事態宣言が発令され、世の中の人たちは家で過ごすことが増え、その人たちを支えるために私は外に出ました。世の中の人々は、物流や交通関係でで働く人たちは英雄、などと評価してくれましたが、決して人手の多い職業ではなかったところに、膨大な仕事が押し世せ、それが年末まで続いたので、体力と精神力は限界に近かったと思います。私の夫は、いわゆるサービス業に従事しているため、家にいて子供たちを支えてくれることが多くなり、大変に感謝している一方で、自分の仕事があってよかったと安堵したこともまた事実でした。あのまま医療関係の仕事に戻っていたら、もっと大変な現実が待っていたと思いますし、実際に前線で働いている人たちこそ、英雄と呼ばれるべきと考えています。

 

②母親として

私には中学生と小学生の息子が二人いますが、本当に彼らにとっても、忍耐の1年だったと思います。3月から4月、子供にとって最も大切な2か月が休校によって失われ、そしてこの1年も、ほとんどの行事が中止となり、大切な時間を奪われた1年になりました。

一番きつかったのは、5月から始まって、勉強の遅れを取り戻すために、かなりしんどいスケジュールを組んであったこと。2か月の休みで、体力はかなり失われていました。休校中、公園で息抜きに遊ばせたりしていたところ、近所の人から学校に通報され、かなりの長い時間家の中で過ごしていたのですから仕方のないことです。

また、今や賛否両論となってしまっている、東京オリンピックの開催ですが、もしコロナがなく、通常通り開催されていたら、子供たちにとっても貴重な経験になったと思っています。自分自身、若い時に長野オリンピックをリアルタイムで体験していますが、あの高揚感は忘れられません。子供たちと、東京に住んでいるからには、マラソンくらいは見に行きたいね、と話していたのでとても残念に思います。

息子たちは毎日検温、マスクで登校、2回目の緊急事態宣言で部活動も停止されていますが、自分たちなりに工夫して生活しているし、この経験を未来にきっと生かしてくれるだろうと期待しています。

母親として、仕事で疲れている姿を見せることが多い一年でしたが、子供たちも私のことを労わってくれるようになりました。家族として、夫も含め、自分の役割を探してこなそうとする姿勢が生まれたことは、よかったことの一つなのかなあと思うようにしています。

 

③個人として

個人として、インターネットやTwitterから離れることが増えたように思います。情報の多さのストレスを感じるようになったからです。私は東日本大震災のとき、ネットの情報に踊らされ、心の均衡を崩してしまった経験があり、あの時にちょっと状況が似ているな、と感じています。あの時は情報を集めようとして、情報に飲まれてしまったのですが、これに対処する一番の方法は「情報を遠ざけ、最小限の情報だけをみるようにすること」ということをわかっていたので、今回はあの経験をせずに済みました。

停滞は争いを生んでしまいます。どの情報が正しいかどうかわからなくなり、強い言葉や、反政府的なことばを信じたくなってしまう。不安だからこそ、強い言葉が欲しくなるのです。強い言葉は争いを生んでしまう。だから、そこから離れて、目の前の家族であるとか、本当に起こっていることを自分の目で見るように心がけています。

私は次はワクチンに期待しています。ある外国人の方が、ニュースで「コロナウイルスをこの地球上からなくすことはできない。だからワクチンを打つ」といっている映像を見て、これだ、と思いました。完全なる収束は長い年月がかかる。だからワクチンと薬が普及することが次の目標なのだと感じています。

私はこの仕事をまたしばらく続けていくしかなさそうですし、そのためにも自分のできることを、粛々と、他人に強いることなく己の判断で行っていくしかないのだ、と冷静な視点を持てているのか、毎日といかけるようになりました。

 

私は1年後には収束しているのでは、と楽観的な気持ちでいましたが、事態はあまり変わっていないように思います。でも、行動指針のようなものは自分の中でかなり固まっており、あとはそれに従って行動していくしかないのかなと思っています。

この日々に終わりがくることを願って、明日も元気に生きていこうと思っています。

この醜くも、美しい世界は続く

寝る前に好きな音楽ばかりYouTubeで漁って聴いてたら、突然この曲どう?みたいな感じで新しい曲をぶっ込んでくる時がある。

 

星野源サカナクションあたりをサブカル女子よろしくループしてたら、突然くるりをおすすめに出してきた。わかりすぎる。この流れできたらくるりキリンジも好きでしょう?って言いたいんだろう?でも残念でした。私はその頃の時代は卒業したおばさんなのだ。

 

そんな意地もあり、絶対に押さないと心に決めていたのだが、何回も同じ曲を勧めてくるので、根負けして何気なく聴いた。びっくりした。自分が一番求めてる歌詞とメロディーが流れてきちまったんだ。

 

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くるりは若い時に「東京」を聴いたきりだった。あの頃の音楽は最高だったな。中村一義とか、フィッシュマンズとか、日向に当たらない人間が聴くべき曲もちゃんと用意されていたんだ。

 

そして、YouTubeが私に勧めてきた「琥珀色の街、上海蟹の朝」がコロナ禍のこの世の中を象徴しているようで、それでいて優しすぎたんだ。なんなんだ、くるり…もう何処かで、若い時に感じたような音楽で頭殴られるみたいな経験できないんじゃないかという勝手な思い込みから解放してくれた。

 

今の時代、本当に陰で生きることを許してくれないような気がしている。自分だけが好きな音楽や本に囲まれた空間、誰も入り込めないような良い意味での孤独はなくなってしまったのではないかとか考える。

陰を探して生きているのに、貴方の生きているところは陰じゃないよ、堂々と生きていいんだよ!と光を当てようとしてくる。SNSの中には貴方の好きなように、他人を気にせず堂々と生きたらいい、ということばが並ぶ。いや自分は自分を甘やかして生きたいわけじゃない。陰で生きているという自覚のもと生きていきたいだけなんだ。

 

ママはいい子だからね、と夫がよく言う。

文章にするときついことばに聴こえるけど、実際にはもっとニュートラルなニュアンスで言う。

俺は、別に陰で生きている自覚があるし、死ぬまでそう生きていくつもり。でもママはいい子だから、この陰で生きていることが許せないんだろう?もっと正しく、認められるような道を生きたいけど、生活の中では道理に外れたことばかり目について苦しいんだろう?

 

優しい顔でそう言う夫に、そうだね、と答えながら、その生き方を否定しないでいてくれることに心から感謝した。

 

最近、自分より年下の有名な俳優が自殺した。

 

世の中はこれをセンセーショナルに扱った。彼の死を、誰もが受け止めきれずに悲しんでいた。別の意味でも、自殺のニュースは私の心をざわつかさせる。若い時に、友人が自死したことを思い出させるからだ。

 

私は、中学1年生の時に、初めて恋人ができた。初めて同じクラスになった同級生の男の子だった。その時はまだ子供だったから、手を繋ぐことがあったどうかという関係だったし、いつ終わったのかもわからないようなあやふやな恋だった。しかし、不良少年よりだった彼が、当時優等生と呼ばれた私に見合うよう、身なりを正していたということを友人伝てにきいて、ああ、本当に彼は私のことを好きなんだな、としあわせな気持ちになったことを今も思い出す。

 

そんな彼と大人になって再会したのは、25歳の同窓会だった。久しぶりに再会した彼は結婚して、2人の子どものお父さんになっていた。子供たちの写真を見せてくれた彼に、私は、今はしあわせなんだね?と聞いた。彼は考えることもなく、曇りのない笑顔で、ああ、しあわせだよ、と答えてくれた。

 

彼はその半年後に、自ら飛び降りて亡くなった。

 

私はそれを聞いたときにわかには信じられなかった。しあわせだよ、と答えてくれたあの顔に、陰はあったんだろうか?今も思い出せない。いや何か見つけたところで、結婚して子供もいる昔の恋人に、何かしてあげることなんてできたはずもなかった。そんな私ですら、あの時どうにかできなかったのか考えるんだから、家族はどんな気持ちだっただろうかと思う。“今しあわせなんだね?”という彼への質問ですら、もしかしたら彼にとってみたらことばのナイフのようなものだったのではないかと、胸が苦しくなる。

 

そして、俳優の彼の、一握りの人しか歩めないであろう、光り輝いた人生を以てしても、自殺を選んでしまうんだという虚しさ。どんな報道にも、彼には悪い話が全く出てこない。どこまでも光り輝いている。でも、少しでも休める自分だけの日陰を求めたとしたら、それは死でしかなかったのかもしれないと思うととても哀しい。

 

長く生きていると、自分以外の色んなことが、自分の力ではどうにもならないことを実感する。それを諦めたとき、初めて楽に生きられるのかもだけど、私はまだ、諦めきれてないのかもしれない。何処かで人間は皆正しく、そう生きるべきだと思っているのかもしれない。

 

だからこそ、世界に時々深く絶望してしまうときがある。世界危機のとき、人間の醜さは色濃くでる。東日本大震災のときもそうだったが、インターネット、特にSNSにおいて、個人の意見が大きなうねりとなって現れる時代。どんなに目をつぶり、耳をふさいでも、世界がどす黒く見えてきたりするのだ。

 

くるりの「琥珀色の街、上海蟹の朝」ではbeautiful cityという単語が繰り返し出てくる。これは皮肉か真実か、どちらにも聴きようがある。でも私は、後者であってほしい。

 

実をいうと この街の奴らは義理堅い

ただガタイの良さには騙されるんじゃない

お前と一緒で皆弱っている

 

その理由は人それぞれ

耐え抜くためには仰け反れ

この街はとうに終わりが見えるけど

俺は君の味方だ

 

琥珀色の街、上海蟹の朝/作詞・作曲 岸田繁

 

25歳で死んだ彼へ。

この世界は相変わらずだし、生きるにはつらいことばかりだ。でも私は生きている。世界がどうなっても、最後まできっと味方してくれる夫がいて、その人がいる限りはどんな世の中でも生きていくし、最後まで見届ける。私はそんなに強くないし、きっと周りの人も何かしら痛みを抱えていると思う。世界は美しくもないし、やさしくもない。でもまだどこかで、世界も人間も美しいと信じて生きていたいと思うんだ。

あの時、なぜしあわせだといったのに、死んでしまったの?もう一度会えるなら、あの時、今はしあわせなんだね?なんて聞いてごめんね、と謝りたい。そして、しあわせそうに生きる人もきっと弱ってると今は思うようにするよ。

 

私は今日も生きる。

私の味方をしてくれる誰かが今日も元気に生きられるように、おいしいご飯を作ろう。

明日も朝は来る。

 

くるりのこの曲についてのインタビューもあわせてどうぞ。)

quruli.net

 

 

 

 

 

繁忙期が終わらない上半期

今週のお題「2020年上半期」 

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私は普段、とある運送業者の事務として働いている。

この仕事についてからは5~6年になるが、今年の前半は本当に体がどうにかなるかもしれないという恐怖にいつもおびえていた。

 

この仕事の繁忙期は、7月と12月、お中元、お歳暮、年末のあれこれの時期、この時期だけは倒れるかもしれない覚悟を持って働いている。しかし、2019年の12月の繁忙期を乗り越えてすぐに訪れたもの。コロナウイルスである。

 

繁忙期の疲れが取れないまま、突然訪れた緊急事態宣言と、外出自粛。その中で、私たちの仕事は社会のインフラを支えるための重要な立ち位置に置かれた。

外出自粛のため、通販を利用する人が非常に増え、また、帰省も難しくなったためか、田舎へ荷物を送りたいという荷物の持ち込みも増えた。営業所の入り口に行列ができることも多くなった。

 

繁忙期には人員を増やしたり、それなりの体制をとるが、今回はイレギュラー、通常の人員の中、またコロナウイルスの影響を考えて、持病のある方や高齢の労働者は自宅待機という中で繁忙期同様の仕事を強いられた。

 

テレビやネットでは「こんな世の中でも配達してくれる皆さんありがとう!」「あなたたちはヒーロー!」などと自分たちを称える言葉があふれたが、実際の自分たちは、目の前の仕事をこなすだけで精いっぱいの日々だった。エッセンシャルワーカー?くそくらえ!と思うくらい荒んだ時期もあった。

www.kou1.info

 

そして緊急事態宣言が明け、そのまま7月の繁忙期に突入。

正直毎日疲れている。家で自粛していた家族に移してはならない、という恐怖心とよく戦ったと思う。また第二波の到来が見えていて、後半もこの繁忙期は続くのかと思うと、正直心くじけそうになる。

 

それでも働いていく選択肢しかない。

ご迷惑をおかけしつつも、こんな時代だからしょうがないよ、と大目に見てくれるお客様はやっぱり神様です。ありがとうございます。そしてごめんなさい。

ヒーローなんて呼ばないで。でも時々は、いつも頑張っているね、って配達員を直接ほめてあげてほしい。早くこの時代が終わることを祈って。

ふつうのひと

今日からブログをつける。

 

私は昭和生まれの41歳、一つ年上の夫と、二人の小中学生の息子とともに、都内のどこかに在住している。仕事は日中パート生活、いわゆるどこにでもいる普通のおばちゃんだ。

 

若い時は文章を書くことが好きで、ブログをたくさん書いて、いろんな人からコメントをもらうようなこともあった。しかし年齢を重ね、仕事が忙しいとか、子育てが忙しいとか、生活に忙殺されて、何か自分の考えを発信するようなことの優先度はどんどん下がっていった。

 

20代、30代は迷いの時期、こうありたいとか、こうあるべきとかたくさん考えている時期はあった。しかし40代は不惑孔子先生はそういったけれど、迷いがなくなるなんてことはないと悟っただけだった。ただただすべてを受け入れ、生きることだけに力を注がなければこの先生きていけない、老いたからこその開き直りを感じたというだけだった。

 

気が付けば何を受け入れたか、それはただ自分は”ふつうのひと“であったという事実。

30代まではどこかで、「自分はまだ何か大きなことを成し遂げられるのではないか」「まだ自分の知らない何者かになれるんじゃないか」という淡い期待をいだいていたけれど、結局私はふつうのひと、だった。

 

結婚して、子供に恵まれ、それなりに仕事があり、それをふつう、と受け入れてしまうのはどうなのか。それはさりとて、今の私は、自分自身の手の届く場所のものを守るので精一杯、といういきものであり、その事実がとても、若い時に自分が思い描いていあたものより小さかったということに、一抹の哀しみを感じる瞬間がある。

 

私の敬愛するロックバンド、エレファントカシマシがこう歌っている。

youtu.be

10代憎しみと愛入り混じった目で世間を罵り
20代悲しみを知って 目を背けたくって 町を彷徨い歩き
30代愛する人のためのこの命だってことに あぁ 気付いたな

「俺たちの明日」:エレファントカシマシ

いやこれ聞くとさ。めっちゃ元気出ちゃうんだけどね。人は年とってもいい、と思わせてくれるんですよ宮本先生は。

 

でも宮本先生、40代、50代は今ならどう歌ってくれますか?

 

脱線するけれど、私はずっとエレファントカシマシのファンで、 東京の町のどこかで宮本さんに会ったら絶対卒倒しちゃうと思うんだけど、なにか一言でも話せるなら、といつも考えている(恥ずかしいけど本当です)。今は上の質問をしたい。宮本さん、50代の今、この歌詞の続き、今ならなんて書きますか…って聞きたい。

 

私はふつうのひと。

毎朝バタバタしながら家族を送り出し、仕事中に夕飯のメニューのことを考えて、子供たちの生活を心配し、ちょっと中年になってきた旦那の健康のことを考えて、隙間で好きな俳優やアーティストのことを検索し、帰ったら子供の話を聞きながら夕飯を作り、旦那と仕事の愚痴を言い合って、ちょっと趣味のゲームをプレイして眠くなったら死んだように寝る。

それが人間のしあわせだと心では感じながら、自分の思う何者になれなかったことへの哀愁を抱えながら眠る。誰かを守ることと自己実現は並行させられないものなの?などと考えたりもしながら。

 

久しぶりのブログ。

このもやもやと、自分の好きなものを記録して、自分というものを整理して生きていこうと思う。きっと自分はふつうのひと、なんだという再認識をするだけなんだとしても、だ。