耐雪桜花麗

そこらへんにいるオカンの日常。

この醜くも、美しい世界は続く

寝る前に好きな音楽ばかりYouTubeで漁って聴いてたら、突然この曲どう?みたいな感じで新しい曲をぶっ込んでくる時がある。

 

星野源サカナクションあたりをサブカル女子よろしくループしてたら、突然くるりをおすすめに出してきた。わかりすぎる。この流れできたらくるりキリンジも好きでしょう?って言いたいんだろう?でも残念でした。私はその頃の時代は卒業したおばさんなのだ。

 

そんな意地もあり、絶対に押さないと心に決めていたのだが、何回も同じ曲を勧めてくるので、根負けして何気なく聴いた。びっくりした。自分が一番求めてる歌詞とメロディーが流れてきちまったんだ。

 

youtu.be

 

くるりは若い時に「東京」を聴いたきりだった。あの頃の音楽は最高だったな。中村一義とか、フィッシュマンズとか、日向に当たらない人間が聴くべき曲もちゃんと用意されていたんだ。

 

そして、YouTubeが私に勧めてきた「琥珀色の街、上海蟹の朝」がコロナ禍のこの世の中を象徴しているようで、それでいて優しすぎたんだ。なんなんだ、くるり…もう何処かで、若い時に感じたような音楽で頭殴られるみたいな経験できないんじゃないかという勝手な思い込みから解放してくれた。

 

今の時代、本当に陰で生きることを許してくれないような気がしている。自分だけが好きな音楽や本に囲まれた空間、誰も入り込めないような良い意味での孤独はなくなってしまったのではないかとか考える。

陰を探して生きているのに、貴方の生きているところは陰じゃないよ、堂々と生きていいんだよ!と光を当てようとしてくる。SNSの中には貴方の好きなように、他人を気にせず堂々と生きたらいい、ということばが並ぶ。いや自分は自分を甘やかして生きたいわけじゃない。陰で生きているという自覚のもと生きていきたいだけなんだ。

 

ママはいい子だからね、と夫がよく言う。

文章にするときついことばに聴こえるけど、実際にはもっとニュートラルなニュアンスで言う。

俺は、別に陰で生きている自覚があるし、死ぬまでそう生きていくつもり。でもママはいい子だから、この陰で生きていることが許せないんだろう?もっと正しく、認められるような道を生きたいけど、生活の中では道理に外れたことばかり目について苦しいんだろう?

 

優しい顔でそう言う夫に、そうだね、と答えながら、その生き方を否定しないでいてくれることに心から感謝した。

 

最近、自分より年下の有名な俳優が自殺した。

 

世の中はこれをセンセーショナルに扱った。彼の死を、誰もが受け止めきれずに悲しんでいた。別の意味でも、自殺のニュースは私の心をざわつかさせる。若い時に、友人が自死したことを思い出させるからだ。

 

私は、中学1年生の時に、初めて恋人ができた。初めて同じクラスになった同級生の男の子だった。その時はまだ子供だったから、手を繋ぐことがあったどうかという関係だったし、いつ終わったのかもわからないようなあやふやな恋だった。しかし、不良少年よりだった彼が、当時優等生と呼ばれた私に見合うよう、身なりを正していたということを友人伝てにきいて、ああ、本当に彼は私のことを好きなんだな、としあわせな気持ちになったことを今も思い出す。

 

そんな彼と大人になって再会したのは、25歳の同窓会だった。久しぶりに再会した彼は結婚して、2人の子どものお父さんになっていた。子供たちの写真を見せてくれた彼に、私は、今はしあわせなんだね?と聞いた。彼は考えることもなく、曇りのない笑顔で、ああ、しあわせだよ、と答えてくれた。

 

彼はその半年後に、自ら飛び降りて亡くなった。

 

私はそれを聞いたときにわかには信じられなかった。しあわせだよ、と答えてくれたあの顔に、陰はあったんだろうか?今も思い出せない。いや何か見つけたところで、結婚して子供もいる昔の恋人に、何かしてあげることなんてできたはずもなかった。そんな私ですら、あの時どうにかできなかったのか考えるんだから、家族はどんな気持ちだっただろうかと思う。“今しあわせなんだね?”という彼への質問ですら、もしかしたら彼にとってみたらことばのナイフのようなものだったのではないかと、胸が苦しくなる。

 

そして、俳優の彼の、一握りの人しか歩めないであろう、光り輝いた人生を以てしても、自殺を選んでしまうんだという虚しさ。どんな報道にも、彼には悪い話が全く出てこない。どこまでも光り輝いている。でも、少しでも休める自分だけの日陰を求めたとしたら、それは死でしかなかったのかもしれないと思うととても哀しい。

 

長く生きていると、自分以外の色んなことが、自分の力ではどうにもならないことを実感する。それを諦めたとき、初めて楽に生きられるのかもだけど、私はまだ、諦めきれてないのかもしれない。何処かで人間は皆正しく、そう生きるべきだと思っているのかもしれない。

 

だからこそ、世界に時々深く絶望してしまうときがある。世界危機のとき、人間の醜さは色濃くでる。東日本大震災のときもそうだったが、インターネット、特にSNSにおいて、個人の意見が大きなうねりとなって現れる時代。どんなに目をつぶり、耳をふさいでも、世界がどす黒く見えてきたりするのだ。

 

くるりの「琥珀色の街、上海蟹の朝」ではbeautiful cityという単語が繰り返し出てくる。これは皮肉か真実か、どちらにも聴きようがある。でも私は、後者であってほしい。

 

実をいうと この街の奴らは義理堅い

ただガタイの良さには騙されるんじゃない

お前と一緒で皆弱っている

 

その理由は人それぞれ

耐え抜くためには仰け反れ

この街はとうに終わりが見えるけど

俺は君の味方だ

 

琥珀色の街、上海蟹の朝/作詞・作曲 岸田繁

 

25歳で死んだ彼へ。

この世界は相変わらずだし、生きるにはつらいことばかりだ。でも私は生きている。世界がどうなっても、最後まできっと味方してくれる夫がいて、その人がいる限りはどんな世の中でも生きていくし、最後まで見届ける。私はそんなに強くないし、きっと周りの人も何かしら痛みを抱えていると思う。世界は美しくもないし、やさしくもない。でもまだどこかで、世界も人間も美しいと信じて生きていたいと思うんだ。

あの時、なぜしあわせだといったのに、死んでしまったの?もう一度会えるなら、あの時、今はしあわせなんだね?なんて聞いてごめんね、と謝りたい。そして、しあわせそうに生きる人もきっと弱ってると今は思うようにするよ。

 

私は今日も生きる。

私の味方をしてくれる誰かが今日も元気に生きられるように、おいしいご飯を作ろう。

明日も朝は来る。

 

くるりのこの曲についてのインタビューもあわせてどうぞ。)

quruli.net